1995年 5号 ジュニア・ウェルズ・ツアー旅日記

  前号でお伝えした様に、ジュニア・ウェルズのエージェントからの電話から1か月後ついに僕はジュニアの魔力に引きつけられてシカゴから1000マイル離れたテキサスへと旅立っていた。今回はジュニアとの1か月に渡るウエストコーストツアー模様を旅日記にしたためてみよう。

 2/4 2月上旬にもかかわらず昼のテキサスは20度にまで気温が上がり、街行く人々は一様にTシャツ姿で歩いている。ツアー初日のヒューストンから約4時間のドライブの末テキサスブルースのメッカ、オースティンへ。300人は収容 できそうな「アントンズ」はテキサスでも最も注 目を集めるブルースクラブで、スティーヴィ・レイ・ヴォーンやアルバート・コリンズなどのポ スターが壁一面に貼られている。テキサスの熱狂的なファンにのせられてジュニアのプレーにも力が入る。『Broken and hungry』から最後の『Hoodooma n Blues』まで一気にいく。ショーが終わると楽屋にはCDやレコードジャケットを手にサインを求める人で一杯に。ジュニアはファンの一人一人に 丁寧に応対していた。「Who loves you? Junior loves you 」を連発して盛り上げていた。ホテル に帰る直前にジュニアに呼び出される。不安になりながらドアを開けるとジュニアは
「お前に一つ だけ言っておくことがある。いい音してるぜ。俺 たちはこれからもっとよくなるな。」ホッと胸をなで下ろす。
 
 2/5 移動日。飛行機で移動するジュニアを除いたバンドメンバーとロードマネージャーのマ イク、ドライバーのスキナー総勢10人が2台のバンに分乗して一路ウエストに向かう。オーステ ィンを出発して10時間走っても州を越えない。テキサスの広さにあきれる。道の両側には牧場と草原がどこまで行っても続き、所々サボテンが顔を突き出している。夜11時頃、州境のミュール・シューという小さな街で後ろのバンがスピード違反で捕まる。スキナーの免許証が期限切れだった為全員刑務所へ連行された。カーボーイハットを被った見るからにテキサスの田舎者の警官は、 黒人に混じって2人の白人さらに東洋人の僕を見 て驚く。「お前たちは一体何の団体だ?」1時間経っても釈放されずヤキモキするが、しばらくし てスキナーが罰金を払って釈放された。一同 "Pri son Blues ”にならずにほっと胸をなでおろす。  

 2/10 噂には聞いていたがラスベガスの現 実離れした派手さとスケールは歌舞伎町の千倍はあるかと思う。街角のセブン・イレブンでさえ店中が緑と赤のネオンでキンキラになっているのには驚いた。郷に入れば郷に従え、ということか。 ホテルのチェックインを待つ間足は早速スロットマシーンへ。満員の客で2セットとも盛り上がる 。楽屋に帰って一息つきながら用意されていたターキー・サンドイッチを頬張っていると、マイクが「さあ、アンコールだぞ」と楽屋の外で叫んでい る。慌ててステージに。アンプ脇のギター・スタンドを見て唖然。ななななんと、ギターを楽屋に置いてきてしまった。楽屋に戻る途中で『Blues is alright』のイントロが始まってしまった。後悔と恥辱の念で火を吹きそうになりながらステージへ。Cold Sweatが溢れ出る。目を眩ますほどに光輝くネオンの下をホテルに 向かって歩いていた。何を思ったかジュニアがいきなり「昔はなあ著作権なんて誰も知らなかった んだ。唯一ウィーリー・ディクソンだけが知って いたな。奴にはチェスがバックについていたから。『フードゥーマン』だって実は俺が書いた曲じゃないんだ。ただ俺がアルバムに入れて有名にしただけさ。今だに印税が入ってくるから後ろめたさを感じるな」ブルースとベガスのネオン。全く異質の世界に感じるが、ジュニアだけはこの地に もしっかり足をつけているように思えた。
 
 2/11 ステージの幕が開くと同時にブルース・ブラザーズでお馴染みの俳優ダン・アイクロイドがステージに姿を現す。「皆さん。今夜ここにお迎えするミュージシャンは本物の中の本物のブルースマンです。最後まで彼とバンドのプレーを楽しんでいって下さい。ジュニア・ウェルズです。どうぞ」バンドが始まるとともにジュニアがそでからワイアレスマイクを手に登場する。スポットが彼の紫の派手なスーツを映し出し、幾種ものカラーライトがバンドを浮き彫りにする。ここハリウッドの「ハウス・オブ・ブルース」はダン・アイクロイドを中心としたプロダクションによって総工費約600万ドルをかけて作られた。収容人員2000人、一階には3つのバー、2階はテーブル席が並び、3階はVIPルームが 5部屋とアーティスト用のシャワー付きドレッシング・ルームがある。3階全ての部屋にはステージの様子を映すテレビモニターが設置され、ステージはボタン一つで上下し、2階席はステージが始まると共に壁が左右に開きステージに向かってせり出す。そのスケールの大きさとエンターテイメントに徹した作りはこれまでのブルースクラブのイメージを覆したといっても過言ではないだろう 。この店はボストン、ニューオーリンズにもあり近々シカゴにもできるという噂で ある。
 ステージが終わると楽屋にはダン、リー・オス カーなどジュニアやメンバーに会いに集まったゲストで一杯になる。ダン曰く、ブルースブラザーズ2の撮影がほぼ決まったとの事で、今回はジュニアにぜひ出演して欲しいと言っていた。請うご期待というところか。
 
 2/14 ベイブリッジを挟んで向こう岸には サンフランシスコのビル群、そしてずっと右奥にはかの有名なゴルデンゲート・ブリッジがかすかに姿を覗かせている。そしてダウンタウンに入ると、傾斜のきつい丘が続き、時折これまた有名な ケーブルカーがギーギー線路の摩擦音をたてながら我が物顔で道の真ん中を通り過ぎていく。ギグまでの時間を利用してフィッシャーマンズ・ワーフで蟹を食べチャイナタウンで新鮮なシーフードに舌包みを打つ。これでナイトクラブで『I left my heart in San Francisco』などを聞いた日にゃあ完全なお上りと化すのであるがそこは仕事、我々一向はボズ・キャッグズが経営する「スリムズ」へ。楽屋に入ろうとしてセキュリティーに 呼び止められた。「お前誰だ」「バンドのギタリストだ」「本当にメンバーか」「そうだ文句ある か」「証拠はあるか」「中のメンバーに聞け」と いう押し問答が暫く続いてやっと中に入れてもらう。東洋人のブルースマンなんて見たことねえんだろうなあ、とわかりつつもやはりむかつく。「 スリムズ」は有名な割には音響があまりよくない。ファーストセット後の休憩中、ジュニアが「シ ュンお前は歌うのか?」と聞いてきた。全く歌わ ない訳ではないがギターと違って全く自信がないのだと正直に言う。そして英語が母国語でない日本人に果してブルースが歌えるのかという長年抱えていた疑問をぶつけてみた。「確かにアクセントの問題とかはあるだろう。でもようは聞く相手が歌詞を聞き取れればいいんだよ」と言って「エブリシング・ゴナ・ビー・オーライ」をゆっくり 歌う。「な。こうやって丁寧に歌えば聞き取れる だろう。好きな歌を持ってこい。俺が教えてやるよ」と言ってくれた。日本人のブルースマン達はこれをどうやって解決しているのだろうか。今度近藤房之助さんに会ったら聞いてみたいと思った 。

 2/25 朝6時に出発を告げる電話で叩き起こされる。今日は530マイル(約850キロ)離れたアイダホ州ヘイリーまで走り、夜はそのままギグというハードスケジュールだ。田舎道の両側には西部劇にでてきそうな木造りの小さな集落がぽつぽつ現れる。広大な野原には牛、馬、バッファロー、羊などが大地いっぱいを使ってのんびり暮らしている。こんなところで育った牛はさぞかしうまいだろうなあ、などと考える。そうするうちに道は傾斜がきつくなりはじめ、いつのまにか辺りは雪景色へと早変わりしていた。ヘイリーはロッキーのふもとの小さな街だ。この「ダイナマイト・ラウンジ」というすごい名前の店で働くサウンドマンが自分で作ったというドブロクビールを2リットル瓶に6本も持ってきた。これを見たメンバーの目の色が変わったのは言うまでもない。アメリカのビールをほとんど飲まない僕もコクとちょっぴり酸味のきいたこのビールはグイグイいってしまった。ここはスキーリゾートのせいか若いカップルの姿が目立ち、バンドが始まるとディスコ状態に。さっき飲んだビールがまわりはじめ足元がふらふらになってきた。頭はクラクラ息が荒くなる。「早くセットが終わんねえかなあ。トイレに行って楽になりてえなあ」などと思いながらプレーするが、いつにも増してこの夜ジュニアは僕にソロをまわしてきた。オー。ジーザス。

 2/27 OFF DAY。昼過ぎまで爆睡する。ここモンタナ州ミズーラにはモンタナ州立大学があり昨夜は同大学の講堂でギグだった。昼はホテルの周りを歩いて絵はがきなどを購入。夜僕とキーボードのジョニー、マイクにスキナー4人で飲みに出る。ビリヤードをやりながらビールとジャック・ダニエルをしこたま飲む。次の店になだれ込むと、そこではアコースティックギターを抱えた2人組がフォーク・ブルースをプレーしていた。昨夜我々のギグを見に来ていたそのうちの一人が僕を見つけると、何曲か弾いていってくれと盛んに催促する。半分強引にギターを手渡されてステージへ。酔った勢いで「スイート・ホーム・シカゴ」とジミー・リードの「ユー・ドント・ハフ・トゥ・ゴー」をたて続けに歌う。人前で歌うのなんて1年ぶりくらいだ。しかし日本の、しかも栃木から来た田舎者に同情してくれたのか、拍手喝采の嵐で受けまくってしまった。シカゴのあるブルースマンみたいに帽子を持って場内を一周すれば30ドルくらいはチップが集まったかもしれない。その店にいた3組のカップルがこれからパーティをやるから一緒に行こうと我々を誘う。マイク、スキナーと別れてジョニーと二人で彼らの車に乗り込む。店からさほど離れていない一軒家に連れていかれると、数人がすでにパーティを始めていた。そこに集まった全員が昨夜のショーを見ていたと言うことで大歓迎を受ける。その中にアラスカで漁師をやっているトムという男が冷蔵庫の中からマリネ状態になったサーモンをとりだしてきた。なんでも数日前に釣ったばかりのサーモンらしい。その中のいくつかの切り身を外のバーベキュー・コンロで焼きはじめた。焼きあがった切り身を手でつまみ口に放り込むと脂ののったジューシーなサーモンの肉が口の中で溶けて広がる。これは今まで食べたサーモンの中でも間違いなく1番押しの上物だ。この夜持ってきたのはキング、コーホー、シルバーの3種類で、これをゴマ油にレモン汁、ペッパーや塩をふった汁の中に1日つけておくのだと教えられた。ロバート・クレイの「ミッドナイト・ストロール」がガンガンに鳴っている。サーモンにロバート・クレイ 。不思議な取り合わせだが両方の『うまさ』に涙が出る思いだ。バッテリーがいかれているのか、手で押さないとエンジンがかからない車でホテルまで送ってもらう。別れ際力強く握手して再会を誓った。暫く忘れていたアメリカ人の暖かさに触れた夜だった。
 
 3/2 ほぼ1か月に渡るロードもいよいよ最 終日を迎えた。ここコロラド州ブレックンリッジはデンバーから車で2時間、標高2マイル(3200メーター)もあるアメリカで2番目に高い街らしい。この一帯はスキー・リゾート地として全米でも有名で、この小さな街もスキー客で一杯だ。機材を店に運ぶ途中で息切れがしてきた。体がだるい。風邪をひいたかな、と思っていたら店のバーテンダーが「それはここの酸素がうすいからだよ」と言う。ここに慣れるには普通3日はかかると言うのだ。考えてみればここは富士山の9号目にあたるわけだ。つまり時差ボケならぬ標高差ボケか。楽屋に酸素ボンベが用意されていたのには驚いた。何でもここで飲みすぎるとこの世のものとは思えない二日酔いに苦しむらしい。バーテンダーは「とにかく水とビタミンを採れ」と医者のようなことを言う。ジュニアは大丈夫か心配に なる。しかし最後のギグということもあるのか、メンバーの音に集中力がみなぎりサウンドが引き締まっていた。ジュニアも歌、ハープともに切れがあり絶妙なイントネーションと語り口で客を大いに沸かせた。年に数回かもしれないが、心に染みわたって言葉も出ないような素晴らしいブルースを確かにジュニアは体験させてくれる。きっと多くのファンはそれを求めて何度でもジュニアの ギグに足を運ぶのだろう。僕もそうやって足を運んだ一人だったが、今こうしてステージでジュニアと同じ音を共有していることの意味をかみしめると、大きな至福感を感じずにはいられなかった 。 

 ショーが終わりホテルに向かう車の中でジュニアは満足そうに「ここしばらくでは最高のツアーだったな。お前らマザー・ファッカー達もいいプレーしていたぜ」と鼻歌混じりに言った。ふと、以前オーティス・ラッシュのマサキ夫人が、昨年ルイス・マイヤーズが亡くなったとき、お金が無く墓石を買えなかった家族に変わってジュニアが買ってあげたのだ、と言っていたことを思い出してジュニアに聞いてみた。「ああ。本当だぜ。奴も金を残さずに死んでしまったんでな。兄のデイブは何もしてやらなかったから俺が買ったんだ。 ルイスは取っつきにくいヤツだと思われていたが 、俺にとってはベスト・フレンドの一人だったんだよ」ルイス・マイヤーズは僕にとっては恩人の一人だ。シカゴに来たばかりのころに彼のバンドに入れてもらって、厳しい言葉をかけられながらも多くの事を彼から学んだ。それだけにジュニアの言葉は嬉しいものだった。もし僕が今死んだら墓石とまではいかなくても漬物石くらいは買ってくれますか?と聞こうとしてやめた。車は人影の途絶えた暗い雪道をゆっくり走っていた。しかしそれとは対照的に家に帰れる喜びでメンバーの声は明るく、ホテルに着くまで笑いが止むことはなかった。