Shunの物語
「ブルースの将軍」
― クリント・イーストウッド
(ケネディ・センター・オナーズにて)
「シュン・キクタは印象に残る若き日本人ギタリストだ」
― リヴィング・ブルース(アメリカ)
「モンスターギタリストの誕生」
― 東京中日スポーツ(日本)
「シカゴ・ブルースのクラシックなサウンドを完全に吸収し、確かなフィーリングと自信をもって奏でる優れた日本人ギタリストだ」
― ブルース&リズム(イギリス)
「世界にブルースを伝える大使」
― ブルース・アジア・ネットワーク
(フィリピン)
*生まれから宇都宮時代
1966年9月8日午前11時半、栃木県宇都宮市にて産声を上げる。3750グラムの大きな赤ん坊だった。
父がクラシックギターやオルガン演奏にも親しむ多趣味人だったことから、音楽への目覚めは早く、小学2年の時に音楽の授業でモーツァルトのトルコ行進曲を聞いて感動し、両親にせがんで初めてレコード買ってもらう。父のクラシックギターを弾き始めたのが4年生。見様見真似でドレミのポジションを覚え、簡単な練習曲を独学で練習、クラシックの名曲「禁じられた遊び」が弾けるようになったのは6年の時。
「当時、覚えたてで最初はゆっくりしか弾けなかった右手のフィンがリングが、一晩寝ると翌日にはスラスラ早く弾けるようになって自分でもびっくりした。若いというのはすごいことなんだな、と今になって思う」
宮の原中学に入ると、クラシックと並行してフォークに夢中になり、さらに中学後半からはフュージョン、高校に入ってハードロックにも傾倒してエレキギターを弾くようになる。
3万7千円で買ったグレコのストラトタイプが初めて手にしたエレキギター。エディー・ヴァン・ヘイレン、ゲイリー・ムーア、マイケル・シェンカー、スティーヴ・ルカサー、ランディー・ローズ、高中正義、ラリー・カールトンなどに大きな影響を受ける。
「宇都宮高校では部活(高校球児でした)から帰ると夕食を食べて風呂に入りすぐに寝て、明け方4時くらいに起きて登校時間までギターを練習する、そんな高校時代でした」
プロミュージシャンになることを決意したのは高校1年から2年にかけて。
「高校3年のある日、担任の黒子昭彦先生との進路指導で思い切ってミュージシャンになりたいと告げると、かなり驚いた様子の先生だったけど、本気で音楽の道を進みたいと考えていることや、アメリカの音楽が好きだという話を真剣に聞いてくださった。しばらく考えられて、もしご両親が承諾するのであればと前置きした上で、アメリカに行ってアメリカで音楽を勉強するのが良いのではないか。その方が本物が身に付くんじゃないかとアドバイスをくださった。卒業後のことは漠然としか考えていなかった僕は、この後アメリカ行きを本気で模索するようになった。最初は反対していた母だったけど、最初に理解してくれた父に説き伏せられるようにアメリカ行きを認めてくれ、アメリカ留学が実現することになった」
*バークリー音楽大学留学、ブルースとの出会い
高校卒業後一年間東京で留学の準備をして、1986年5月米国ボストンにあるバークリー音楽大学に留学。
「5月後半のボストンは気候が良くて、日差しが強かった。タクシーから見えるボストン・コモンがキラキラ輝いていたのを今でも良く覚えているね」
バークリーではプロフェッショナル・ミュージック科を専攻。最初は英語がほとんどわからず、先生が言っていることも理解できなかったが、寮でルームメイトになったジェフや数人のクラスメイトに助けられてなんとか授業にもついていく。高いレベルに戸惑うことも多かった。
「世界中から学生が集まるバークリーはレベルが高くて、先生のバンドに引っ張られてツアーやレコーディングに参加する学生もいるほどで、彼らと自分のレベルの差に不安を抱えることも多かったね」
1年後半に差し掛かった頃、先輩に勧められて聴いたのがBBキングの「LIVE AT THE REGAL」だった。このアルバムとの出会いが菊田のその後の人生を大きく変えることになる。
「悲しみや喜び、怒りや慈しみといった生な感情が伝わってきて、心を強く揺さぶられたんだよね。シンプルで直接感情に訴えかけてくるブルースってすごい。特にギターでやるならジャズよりブルースが断然かっこいい、と直感で感じたんだね」
当時バークリーの周りには中古レコード屋が数件あり、ジャズやブルースのアルバムを手当たり次第買い集め、むさぼるように聴き、ライブにも出かけた。マイルス・デイヴィス、ウェイン・ショーター、アート・ブレイキー、ジョー・パス、B.B.キング、バディ・ガイ、ジョン・リー ・フッカー、ジョニー・ ウィンター、エッタ・ジェイムスなど、何百というジャズやブルースのアーティストのライブを生で観ることができたのは菊田にとって大きな財産となっていく。
バークリー在学中には、ロイ・ハーグローブ、アントニオ・ハート、マーク・ウィットフィールド、マーク・ターナー、大坂正彦、大西順子、納浩一、上田浩司、ギラ・ジルカら後のジャズ界のスター・プレイヤーや指導者としてシーンを牽引していくミュージシャン達とも共演している。尚、バークリーの卒業式では特別ゲストのジョージ・ベンソンから卒業証書を手渡されたのも菊田にとっては特別な思い出になっている。
卒業を前にした1989年、ブルースの本場シカゴを訪れる。バディ・ガイのクラブ「レジェンズ」でバディ本人のライブを観て、さらに市内のブルースクラブでは毎晩多くのブルースバンドがプレイしていた。
「町中にブルースが溢れた環境がまずすごいと思った。バディのライブは本当にすごかったね。それに店に入ると、店員がHiとかHow are you?とか声かけてくるのよ。ボストンでは絶対になかったから、こんな親しみやすい雰囲気も気にいって。卒業後はシカゴに移住しようとその時決意していたね」
*シカゴへ。ストリート・ミュージシャンの修行時代
シカゴに行ってすぐに、ユダヤ人が所有するコンドミニアムの1室を200ドルで借り、日本食レストランでバイトを始める。夜はローザズ・ラウンジ、ワイズフール・パブ、ブルース・エトセトラなどでのジャムセッションに出かけてジャムに参加したり、バンドが入っている店でもリーダーに声をかけて1、2曲飛び入りさせてもらう日々。ところが、2ヶ月ほどしたころ、日本食レストランをクビになってしまう。困っていたところに、ジャムで知り合ったベーシストのマイクからストリートで一緒に演奏しないかと誘われる。
「マイクに教えられて、市役所に行って25ドルを払って1年間有効のストリート・パフォーマンス証を発行してもらったんだ。ストリート演奏では電池で音が出る小さなアンプも必要だったんだけど、金がなかったんだよね。それでその時に持っていた2本のギターのうち、初めて買った思い出のあるグレコのギターだったけど、楽器店でトレードしてもらい、アンプを手に入れた。残ったたった一本のギブソンES345と電池のアンプを持ってダウンタウンのステート・ストリートやワシントン駅の構内などで演奏を始めたんだ。ちょうど感謝祭やクリスマスを前にした時期で、数時間演奏するだけでチップが150ドルほど集まった。こりゃあ日本食でバイトするもずっといいや、と気を良くしたんだけど、現実はそんなに甘くないね(苦笑い)。クリスマスが終わるとみんな財布の紐がきゅっと硬くなって、数時間演奏しても2、3ドルにしかならなかった。電車賃を払って残った金でよくピザのスライス一切れだけを食べて過ごしたもんだよ」
そんな折に、シカゴで初めてのギグ(お金をもらってやるライブ)が訪れた。ローザズ・ラウンジのオーナーのトニー・マンジューロがシカゴ・ブルース界の重鎮ギタリスト、ルイス・ マイヤーズのバンドに参加することを勧めてくれた。当日演奏が始まると、すぐにルイスは寄ってきて、そうじゃないこうやるんだと大声で怒鳴ってベーシックなリズムパターン「ランプ・アンド・ランプ」を弾き始めた。前に座っていた客がクスクス笑うのを見て恥ずかしさで顔に血がのぼるのを感じる。
「もう演奏を辞めて帰りたい衝動にかられた(笑)。なんてひどいジジイなんだろうって思ったよ。でも、当時ちゃんとオーソドックスなシカゴのスタイルを弾きこなせなかった自分が未熟だったんだけどね。ルイスにしてみれば、こんなブルースをまともに弾けないアジア人の小僧を俺につけるのか?ってムカついたんだとう思うよ(笑)」
そんな厳しい最初のギグだったけれど、ルイスとトニーの温情でクビにはならず、毎週日曜日にルイスとプレイし経験を積んでいった。数ヶ月が経つとルイスは親しみを示してくるようになり、曲の中でのコードの弾き方を教えてくれたりした。
そんなある日、ルイスの旧友でハーモニカの大物ジュニア・ウェルズがギグに遊びに来る。ステージに上がってマイクを取り出すといきなりハーモニカを吹き始めたジュニア。心臓が飛び出るほど驚いた菊田だが、この自由な雰囲気がシカゴのブルースシーンなのだ。演奏が終わってテーブルにつくと、ほどなくジュニアが菊田の前を通りかかった。
「目が合ったから、何か言わないと、と思った矢先にジュニアが言葉を遮って『俺をミスター・ウェルズなんて呼ぶなよ。マザーファッカーと呼んでくれ』と言ってニヤッと笑ったんだ。初対面の人間にマザーファッカーと呼んでくれだなんて。こんな人に初めて出逢ったよ。椅子から転げるくらい驚いたし、笑いが出て、ジュニアをいっぺんに好きになった。こんな人は他にはいないね。かなり衝撃的な出会いだった(笑)」
その時ジュニアが続けて言った言葉「いいか、自分だけのためにプレイしちゃだめだよ。バンドとお客さんと一緒にプレイするんだ。そうすればお前は大丈夫だ」これを菊田は今でもミュージシャンとしての信条にしている。
*ギグ三昧の日々、CD発売、ジュニア・ウェルズのバンドに参加
シカゴはブルースの都と呼ばれるだけあって、市内には多くのブルースクラブがあり毎晩ブルースバンドがプレイしていた。少しずつブルースシーンに入り込んでいくうちにギグの話が入ってくるようになる。以下、この頃のトピックを箇条書きにしてみよう。
1990
ローザズ・ラウンジのオーナー、トニー・マンジューロの推薦で、ルイス・マイヤーズ・バンドの日曜ライブに参加。以降ジョニー・リトル・ジョン、ローリー・ベル、トミー・マクラッケン、ビッグ・タイム・サラなどのバンドで活動する。
1991
CD「CHICAGO BLUES NIGHT」(GBW)に参加。
1992
CHICAGO BLUES NIGHT BANDで1か月に及ぶイタリア・ツアーへ。サルデニア島のロッシーロッシ・フェスティバルでB.B.キングの前座をつとめる。
その後JWウィリアムスのバンドに入り、1994年頃まではキングストン・マインズやB.L.U.E.S、アーティス・ラウンジなどでレギュラー出演するようになり、週に5日から6日のペースでプレイする日々を送るようになる。Legendsではバディ・ガイとの共演も果たす。
そんな折に日本のキングレコードからアルバム制作の話が舞い込み、1994年に「FUNKY BLUES」でメジャー・デビュー。
「このアルバムにジュニア・ウェルズがゲスト参加してくれることになり、ジュニアとのレコーディングが実現した。まさかジュニアとレコーディングできるなんて思いもしなかったから、当日ジュニアがスタジオに現れるまで信じられなかったよ(笑)。これをきっかけに親しくさせていただき、翌95年にはジュニアがバンドに誘ってくれた。約半年に及ぶ全米、全カナダツアーに参加して、シカゴ以外のブルースシーンを体験。ジュニアの偉大さを改めて知った思い出に残るツアーだったね」
翌年には初リーダーアルバム「THEY CALL ME SHUN」が発売になり、菊田が大尊敬するオーティス・ラッシュがゲスト参加、大きな華を添えてくれた。
「ブルースギタリストにとって、オーティスはエベレストのような存在。こうしてアルバムにゲスト参加してくれたのは光栄であるのはもちろん、マサキ夫人と共に公私に渡って本当によくしていただいたことに、感謝の念が尽きないね」
そのころの主なトピックは以下。
1994
「FUNKY BLUES」 Frank Collier band featuring Shun Kikuta and Junior Wells、また「TRIBUTE TO MAGIC SAM」(共にキング・レコード)でプロデュースとギターで参加。メジャーデビュー。
シカゴのソルジャーフィールドで行われたワールドカップ・サッカーの決勝トーナメント 、ドイツ対ベルギー戦の試合後に同スタジアムで出演。
1995
初のリーダー作「THEY CALL ME SHUN」(キング・レコード)を発表。オーティス・ラッシュ、ジュニア・ウェルズなどのシカゴ・ブルースの大物がゲスト参加。
ジュニア・ウェルズの全米、カナダツアーに参加。ジャパン・ブルース・カーニバルに出演。
1996
2枚目のリーダー作「CHICAGO MIDNIGHT」(キング・レコード)を発表。“ブルースの女王”ココ・テイラーがゲスト参加。
東京新宿のパークタワー・ブルース・フェスティバルに出演し、JWウィリアムスや鮎川誠、石川二三夫らと共演。
1997
「LIVE!!THE 3RD PARK TOWER BLUES FESTIVAL ’96」(キング・レコード)を発表。
「TRIBUTE TO MAGIC SAM」が、アメリカのエヴィデンス・レコーズより全米発売される。
1999
オーティス・クレイの日本ツアーに参加、東京はじめ、札幌、仙台、大阪、福岡で公演。アメリカ帰国後もオーティスのミシシッピ・ツアーにも参加。
2000
ネリー“タイガー”トラヴィスをゲストに迎え「HEART AND SOUL」(M&Iカンパニー) を発表。ジャパン・ブルース・カーニバルに出演。
*ココ・テイラーのバンドに参加。世界の舞台へ。グラミー賞ノミネート作品に参加。
“ブルースの女王”の愛称で知られる大物女性シンガーのココ・テイラーとの出会いは、菊田のリーダーアルバム2作目「CHICAGO MIDNIGHT」のレコーディングにココがゲスト参加した1996年に遡る。その後、再会までには4年の歳月を要する。
「2000年のある夜、キングストン・マインズでプレイしているとココが遊びに来て一番前の席に座ったんだ。ステージからすぐに彼女だとわかり、いつも以上に気合いを入れてプレイしたよ。そのセットが終わって下に降りてココに挨拶をすると、彼女は4年前のレコーディングのことを忘れていたようで”Nice to meet you”とまるで初対面のような挨拶だった。名刺を渡すと、「わかったわ、あなたに電話するわよ、私を覚えておいてね」と言って笑顔でその日は帰って行ったんだ」
それから3ヶ月ほどしたある朝、ココから電話が入る。「私はココ・テイラーだけど覚えてるかしら。あなたに仕事を頼みたいの」彼女のギタリストのトラとして2回仕事を一緒にやることになった。
「いざ演奏が始まると、ステージ上でバンドをぐいぐい引っ張っていく男勝りの力強さに圧倒されたね。シャウトしたときに、モニターからまるで丸太が飛んでくるような声の圧力に思わず後ろにのけぞった経験は、後にも先にもココだけだ。そんな圧倒した凄みのあるココも、ライブが終わると親しみやすい優しい笑顔で、「どう私の仕事は楽しんだかしら」と聞いてきた。楽しむ余裕なんてほとんどなかったけれど、「はい楽しみました」と言うと、「それはよかったわ。じゃあまた電話するからね。私はあなたとのプレイを楽しんだわよ」と言ってくれて、ほっと胸を撫で下ろしたものだ」
そのライブからさらに2ヶ月ほどしたころ、またココから連絡が入った。正式なメンバーにならないかとの打診だった。
「当時ココはワバッシュ通りにセレブリティという店を持っていて、そのオフィスに呼び出されて、メンバーになって欲しいと告げられたんだ。天にも昇る気持ちだったよ。もちろんその場で光栄ですと言って快諾した。ココのバンド、ブルース・マシーンのメンバーになったんだ」
その日から約10年間にわたるココとの活動が始まった。ココとの出会いが菊田の活動を一気に世界へと広げた。ココを通して多くのメジャーなフェスティバルやクラブへの出演を果たす。以下、主なフェスティバルやクラブを挙げてみよう。
ルツェルン・ブルース・フェスティバル(スイス)、ノットデン・ブルース・フェスティバル(ノルウェー)、トランブラント国際ブルース・フェスティバル(カナダ)、レジェンダリー・ブルース・クルーズ(メキシコおよびカリブ海)、エア・ジャマイカ・ジャズ&ブルース・フェスティバル(ジャマイカ)、ブッシュ大統領就任式、スター・プラザ(B.B.キングとボビー・ブルー・ブランド出演)、キホン・ブルース・フェスティバル(スペイン)、サンダーベイ・ブルース・フェスティバル(カナダ、オンタリオ州)、ニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバル(ニューオーリンズ、アメリカ)、B.B.キング・ブルース・クラブ、ハウス・オブ・ブルースなど。
2007年にアリゲーター・レコーズより発売されたココ・テイラーの「OLD SCHOOL」に参加。同アルバムは2008年のグラミー賞ベスト・トラディショナル・ブルース部門にノミネートされる。
同じく2007年には「RISING SHUN」(Yotsuba Records)が発売になり、ココはじめ、ビリー・ブランチ、JWウィリアムス、ジェラルド・マクレンドン、Jamsbeeなどがゲスト参加する。
「ココのアルバムに参加することがバンドに入って以来の夢だったし実現したかったんだけど、アレンジャー兼ギタリストのクリス・ジョンソンがココのレコーディングには長年関わっていたので、自分には出番は回ってこないのかもしれないと半分諦めてもいた。でもアリゲーターレコード社長のブルース・イグロアの計らいで「OLD SCHOOL」に参加する機会が巡ってきたのは本当に嬉しかったね」
*テレビ番組でB.B.Kingと共演
2003年10月23日は、音楽人生の中でも特別に光り輝く一日となる。BBキングの話を聞きながら彼とブルースの歴史に触れる”An Evening with BBKing”というテレビ番組(PBS系)が企画され、そこで演奏するバンドリーダとしてオファーを受ける。
ホスト役を努めるアイザック・ヘイズがBBにインタビューする形で番組は進み、スクリーンには70年代初期のBBのステージが映し出された。歌っているのは”The thrill is gone”。アイザックがBBに「ここに集まったみなさんもあなたのプレイを聞きたがっていると思いますが、いかがですか?」と聞くと、BBが「ウェルOK」と言って、菊田が渡した愛器ルシールを手にし、バンドとの共演が始まった。
演奏が終わって、大きな拍手を受ける中「サンキュー。とても素晴らしいバンドに拍手を送ってください」とバンドの労をねぎらったあとで、
「その若いギタリストはまるでBBキングだ。もし僕が自伝映画を作る時には君に若いBBキングを演じてほしいな」と菊田に向かってこう言った。
さらに終演後の楽屋で菊田を見つけたBBは隣の席に呼び寄せ、手を握りながら「君はBBキングをよく知っているね。とてもいいギタープレイヤーだ。Light(肌の色の薄い)BBキングだね」と言って笑い声を上げた。彼の大きな手の暖かみを感じながら音楽人生で最高の瞬間を過ごしていたのである。
「BBキングは単なるブルースの王様ではなく、自分にとっては初めてブルースの素晴らしさを教えてくれた特別な人であり、シカゴでブルースをプレーするきっかけを与えてくれた恩人でもあるのだ。
そんな彼に会って一緒にプレイするのは、”かなわないかもしれない遠い夢”だった。それが実現したんだ。音楽人生で最高の1日だったと言っても間違いないよね。
ミスターキングが言ってくれた言葉や手の温かみはまるで昨日のことのようによく覚えている。とにかく暖かくて大きな人だった。
ミスターキングと共演して励まされたことと、ココのバンドに10年近く在籍したことで、ブルースの王様と女王様に認めてもらえたことは大きな自信につながった。感謝の気持ちしかないよね」
*マーティン・スコセッシ総指揮の映画The Bluesに出演
マーティン・スコセッシやクリント・イーストウッドなど7人の映画監督がブルース誕生100周年を記念して作った史上最大のブルース・ドキュメント映画「THE BLUES Movie Project」。世界のブルースファンの間で大きな話題作となる。
その第6話「ゴッドファーザー・アンド・サン」にココ・テイラーと出演。
「映画の撮影とは全く知らされずにココの店「セレブリティ」に行くと、テレビ・クルーがすでに入っていて、ライティングとカメラのセッティングがほぼ終わっていた。店内は入りきれない程の映画、音楽関係者やブルース・ファンたちで熱気ムンムンだった。数ヶ月後、ツアー中にテレビでこの映画が放映されていて、画面に自分が映っているのを見て、初めてこの映画の撮影だったと知ったんだ笑」
*ツアー中の大事故で大怪我を負う
2008年8月、ココ・テイラーとのツアー中に、ウィスコンシン州ブラック・リヴァー・フォールズで大事故に遭う。120キロの速度でコンクリートの壁に激突したツアーバンから外に投げ出され、顔面左半分を4カ所骨折 、右足の付け根を脱臼する大怪我を負うも、奇跡的に命は助かる。
左半面の整形手術とリハビリを経て2か月後に復帰。人生観が変わる大きな出来事だった。ココは同乗していなかったので無事だったものの、バンドメンバーは全員が重傷を負い、結局翌年のココの他界までメンバーの二人は復帰する事が叶わなかった。
「骨折するくらい顔を強く打ち、付け根から抜けてしまうくらいに右足が引っ張られたのに、脳や首や神経のダメージも後遺症もなく怪我が治った。何かに守られていたんだって感じたよ。こうして演奏活動にも復帰できたし、まさに第二の人生をいただいたんだね」
*ケネディー・センター・オナーズに出演。ブルースの将軍の称号を与えられる
2008年12月、”ニューヨークの金と、ワシントンのパワーと、ハリウッドのチャームが一つになった”と形容される年末の大イベント、ケネディー・センター・オナーズに出演する。参加者はブッシュ大統領夫妻(当時)を筆頭に、コンドリーザ・ライス国務長官、コーリン・パウエル前国務長官などの政府首脳をはじめ、アレサ・フランクリン、クインシー・ジョーンズ、クリント・イーストウッド、デンゼル・ワシントンなど政治、音楽、映画界の大物がズラリと並んだ。
菊田は、ココ・テイラー、ハニーボーイ・エドワーズ、パイントップ・パーキンス、ウィリー・ビッグアイ・スミスなどの大物ブルースマン、ウーマンの混合バンドのギタリスト兼バンドリーダーとして抜擢される。MC役のクリント・イーストウッドが、マイクを通してバンドメンバーを一人ずつ紹介。「世界中を駆け回って演奏活動を続けている、ブルースの将軍(Shogun of the blues)シュン・キク~タ」と菊田を紹介する。
「イーストウッド氏はジャズやブルースに造詣が深く、音楽映画も作っている。そんな素晴らしい俳優で映画監督の彼にブルースの将軍(Shogun of the blues)と紹介していただいたのは、本当に光栄な事。以来ブルースの将軍を自分のキャッチコピーとして使わせていただいている」
*ココ・テイラー死去、アジアへ活動の目を向ける
2009年6月にココ・テイラーが80歳で天寿を全うし、シカゴのノースウエスタン病院で家族やバンドメンバーとココを見送る。10年近く活動を共にしたブルース界の母親のような存在だったココが亡くなった事、また当時抱えていたブライベートでの行き詰まりもあり、次第に菊田の目はシカゴの外に向き始めていた。
2005年から毎年台湾を訪れていたことや、ブルース・アジア・ネットワークを主催するトム・コルヴィンの協力もあって、本格的にアジアでの活動に力を入れることになる。
「もしココが生きていたら間違いなくシカゴに住み続けただろう。でもココが亡くなって心にぽっかり穴が空いてしまった。同時に台湾ブルース・バッシュに2005年から続けて出演させていただいたことで、アジアの魅力に少しずつ魅せられていた。長年アメリカに住んでいたので北米やヨーロッパ、中米はかなりの回数行ったけれど、日本や台湾以外のアジアでの活動はまだ経験したことがなかった。ちょうどアジアのブルースが盛り上がってきているのを感じていたし、自分がシカゴで体験したことをアジアに伝えたり共有したりすることで役に立てるのではないかと思った。そこで 2011年から本格的にアジアでの活動に力を入れることになったんだ」
*アジアを中心に世界各地での活動が広がる
アジアに軸足を定めて以降、 アジア各地のフェスティバルや老舗ライブハウスにも定期的に出演し、新しいユニットでの活動も始まる。また特筆すべきは、シカゴ・ブルース・フェスティバルに定期的に出演したり、長期間のフランスツアーも敢行するなど、アジア以外にも活動を広げ、ソロアーティストとして確固たる活動の土台を築いていく。このころの主なトピックを下に挙げてみよう。
2011
シカゴ・ミュージック賞をJ.Wウィリアムス&シャイタウン・ハスラーズのメンバーとして受賞。同バンドと青森で行われたジャパン・ブルース・フェスティバルに出演。
フィリピン、マニラのCCP Jazz Festivalにブルースナイトのメインアクトとして出演。
横浜Blitzで行われたLegend of Masterpieceに出演、根本要(スターダスト・レビュー)、西川進、Jikkiと共演。
インドネシアのジャカルタ・ブルース・フェスティバルにメインアクトの一人として出演。
2012
シカゴ・ブルース・フェスティバルのメインステージに出演。
中国の北京ブルース・フェスティバルに出演、ファンキー末吉や納浩一、三科かをりと共演。
2013
キング・レコードからベスト・アルバム「BEST OF SHUN’S BLUES」をリリース。
フラワー・トラベリン・バンドの篠原信彦、和田ジョージ、ナニワ・エキスプレスの清水興、ヴォーカルのシュトウケンイチと”Legend of Rockers”を結成。ゲストに山本恭司(BOWWOW)、加納秀人(外道)、ROLLY、GAKUを迎える。6月にはキング・レコードより Legend of Rockersの「POWER IN MY ARMS」をリリース。
台湾の金曲奨受賞歌手、李婭莎-sashaのアルバムに楽曲提供、プロデュースも手がける。
2015
ヘンリー・グレイとエディー・ショウをフューチャーしたLegends Of Bluesに参加、フジロック・フェスティバル、東京ブルーノートに出演。
ジミー・バーンズと日本ツアーを行い、ジャパン・ブルース・フェスティバルに6年連続で出演。
台湾の金曲奨受賞歌手、以莉高露(イーリーカオルー)のアルバムに参加、アレンジも手がける。
2016
シカゴ・ブルース・フェスティバルのメインステージで行われた"Tribute to Otis Rush"に出演。ジミー・ジョンソンやマイク・ウィーラーらと共演。
堺ブルース・フェスティバルや神戸新開地音楽祭にブルース・プロジェクトで出演。チャーリー・ラヴと全国ツアーを敢行。
2017
世界のブルース情報を一冊にまとめた「世界のブルース横丁」と、ブルースギターのテクニックや知識を紹介する「生きたブルースを身につける方法」2冊の単行本がリットーミュージックより発売になる。
2018
ソロ・アルバム「RISING SHUN PLUS」(Yotsuba Records)をリリース。
アメリカのミシシッピ州を旅し、ジミー”ダック”ホームズと共演。
2019
ソロ・アーティストとして初のフランス・ツアー。
台湾の南台科技大学より客員教授に任命される。
トロンゾ・キャノン、ノラ・ジーンと全国ツアー。
*Blues Company、Funky Trio、Kikuta Brothers
現在の菊田のメインバンドが2005年に結成したBlues Comany。青森のジャパン・ ブルース・フェスティバルにシカゴから出演したジミー・バーンズとキャサリン・デイビスのバックをやってほしいと青森サイドから打診があり、この日のためにメンバーを選んだ。ドラムはシカゴ出身でもんた&ブラザーズなど日本のメジャーなアーティストの活動歴も長いマーティー・ブレイシー、キーボードは2018年にシカゴ・ブルース・ピアノ・コンテストで見事優勝した日本を代表するブルース・ピアニストのLee Kanehira、そしてマルチタレントで菊田と同郷の片野篤がベース。
「このメンバーで演奏したら4人の息が合いバンドにしようとなったんだ。マーティーが俺を社長、社長と呼ぶので俺がマーティーを平社員と呼んだことから、バンド名はBlues Companyだな、と全くひねりのない名前になったんだ(笑)」
以降このバンドはROLLY、KONISHIKI、金尾よしろう、ネリー・タイガー・トラヴィス、マイク・ウィーラー、トロンゾ・キャノン、ノラ・ジーンなど内外のメジャー・アーティストたちとのコラボも行い、日本各地へのツアー他、韓国のグンサン・ブルース・フェスティバルにも出演している。
またFunky Trioは、Blues Companyの片野篤がベース、そして嵐などメジャーアーティストとの活動でもよく知られる関慶和がドラムの3人編成。
さらに2020年からは菊田の弟の浩基がカホンで入りアコースティック・デュオのKikuta Brothersを始動して関東から中部地方へのツアーも行っている。
*Rising Shun Records創設
2018年1月に自己レーベル、Rising Shun Recordsを立ち上げる。レーベル第一弾はBlues Companyのデビューアルバム「BLUES COMPANY」。
「今までキングなどのメジャーからアルバムを出していて、いずれは自分でレーベルを持ちたいと思っていた。Blues Companyを組んだことで、そのアルバムをきっかけにRising Shun Recordsを立ち上げることになった。レーベルを持つ特典はやはり原盤権を持ち、音源を守りながらコントロールできることにあるね」
Rising Shun Recordsからは以下のアルバムが発売になっている。(詳しくはmusicのページにてご参照を)
BLUES COMPANY(2018 – Blues Companyのファースト・アルバム)
GOOD TIMES ROLL(2019 – Blues Project)
LIVE IN FRANCE(2020 – フランス、ペルッサンでのライブ音源)
IN A ROOM(2021 – コロナ自粛期間中に自宅スタジオで録音したアコースティック・アルバム)
LIVE IN CHINA(2024 – 中国、広州でのライブ音源)
BLUE AND ALONE(2025 – 全曲オリジナルの初のインスト・アルバム)
BACK IN THE WINDY CITY(2026 – メジャーデビュー30周年を記念したシカゴ録音。2026/9/8発売予定)
*コロナパンデミック自粛期間とコロナ後の活動
2020年にコロナパンデミックが世界を襲う。菊田の音楽活動にも大きな影響を及ぼし、予定されていた中国ツアーがキャンセルになり、4月以降のスケジュールが全て白紙に。
「1990年にシカゴに渡って以来30年の間、1ヶ月もライブをしなかったのは2008年にツアー中の事故で2カ月間休養していた時を除けば、1度もなかった。この30年で初めての経験だけに、最初の頃は戸惑いや不安もずいぶんあった。このまま活動ができなくなるんだろうか、と暗い気持ちにも正直なった。それでも、ツアーやライブに注いでいたエネルギーと時間を全て自由に使えるのは、突然降って湧いたクリエイティブな好機。それを感じはじめてから、クリエイティブ・モードにスイッチが入った。日中のほとんどの時間をビデオ撮影や曲作り、レコーディングに費やしていたよ。こんな貴重な時間を持てるのもある意味コロナが作ってくれたポジティブな一面だ。アコースティックソロアルバム「IN A ROOM」はそんな中から生まれたんだ」
コロナ渦でもできる範囲内で全国ツアーを行う。制限のある中でのライブツアーで今まで以上にファンや会場スタッフとの絆が深まっていくのを感じた。そして2023年に入るとコロナ明けムードが強まり、全国そして海外へのツアーも再開する。主なトピックを以下に挙げてみよう。
2023
シカゴ・ブルース・フェスティバルでジェラルド・マクレンドンのセットにゲスト出演。
4年ぶりの中国ツアーでは上海と北京のBLUE NOTEはじめ、成都、重慶、広州、深圳など10都市を廻り盛大な歓迎を受ける。
堺ブルース・フェスティバルと佐賀ブルース・フェスティバルにヘッドライナーで出演。
Blues Company8周年記念ライブを、リトアニアのヴァイオリニスト、ジドレ、シンガーの金尾よしろう、松下年見をゲストに迎えて行う。
2024
韓国のグンサン・ブルース・フェスティバルに出演、タイ、台湾、香港へもツアー。
前年に続き中国ツアーでは上海、北京での「アジア・ブルースギター・ヒーロー・ライブ」に出演するなど7都市を廻る。
3週間に及ぶフランスツアーでは「メゾン・ド・ブルース」「ホール・ブルース・クラブ」など10都市13会場でライブ。
金尾よしろうの「夢からさめたら」にプロデュースとギターで参加。
2025
BLUES COMPANY結成10周年記念ツアーを全国4都市で行う。
前年に続き韓国のグンサン・ブルース・フェスティバル、さらにソウル・インターナショナル・ブルース・フェスティバルに出演。
アメリカ、香港、台湾、フィリピンなど海外ツアーも精力的に敢行する。
2026
メジャーデビュー30年を記念したアルバム「BACK IN THE WINDY CITY」のレコーディングをシカゴで行い、9月8日に発売予定。
故郷宇都宮で初めて行われる宇都宮Blues Bashへの出演他、博多ブルースフェスティバル、神戸新開地音楽祭、堺ブルースフェスティバル、浜松ブルースフェスティバル、香港ブルースフェスティバルへの出演も予定されている。
*音楽ライター、ギター・インストラクターとしての活動
音楽ライターとしてギターマガジン、ブルース&ソウル・レコーズ、地球の歩きかた「シカゴ編」、Qマガジンなどで長年レギュラーコラムを担当する。リットーミュージックから単行本「世界のブルース横丁」と「生きたブルースを身につける方法」を出版。
また、ギター・インストラクターとしても長年活動している。1999年にリットー・ミュージックから教則ビデオ「シカゴ・ブルース」が出たのを皮切りに、「シカゴ・ブルース (DVD)」、「R&Bギターの常套句 (DVD)」、「ブルースギターの常套テクニック (DVD)」、「ブルース・ギター・ジャム・セッション (ムック)」、「ブルース・ギター・ジャム・セッションRー伝説再臨ー(ムック)」、「菊田俊介式ブルースギター、感情にグッと来るコール&レスポンスの流儀 (DVDアルファノート)」を発売。
*栃木未来大使、講演活動、映画出演
2010秋に、栃木県の福田冨一知事に任命されて栃木未来大使に就任する。栃木県が作ってくれた名刺には名産品のイチゴがプリントされていることから、名刺を受け取った人からはイチゴ大使と呼ばれることも多いという。 中学校、高校、お寺などで、「夢を大きく描こう」、「生き方の流儀」などの演題で講演も行っている。
「特に若い世代にブルースの素晴らしさと楽しさを伝えていくこと、そして自身の経験を話すことでいろんな生き方のオプションがある事を伝えていければと思っている。いろんな人と交流することで自分もたくさん学んでいるし、自分の音楽を深められれば嬉しいね。世界中を廻ってこれからもいろんな経験をしていきたい」
2026年公開のドキュメンタリー映画「How the Blues came to Taiwan」に主役の一人として出演。インタビューやオリジナル楽曲のLOVE LOVE LOVEやCHICAGO MIDNIGHTの映像も収められている。
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